何が正解?「子どもの勉強」を支えたい

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夕方の余白がくれた、子どもと向き合う時間

ストック食品をうまく取り入れるようになってから、夕方の景色が少し変わりました。料理にかける時間が短くなった分、子どもの今日の出来事を聞いたり、宿題のドリルの苦手なところを、横に腰を下ろして見てあげる余裕ができたのです。

宿題やりなさい、といっても中々進まなかったのに、「一緒にやろう」と言うと渋々やり始め、授業で聞いても分からなかった所などを教えてくれるようになりました。親はつい、学校に行って授業を聞いていれば、理解しているはずだと思いがちですが、子供と話してみると意外とそうとも限らないことが分かり、びっくりするやら愕然とするなんてこともありました。

隣に座るだけで見えてきたもの

最初はただ見守るつもりでした。丸つけをして、つまずいていそうなところで声をかける。それだけのはずだったのに、ふと顔を上げたときの子どもの表情が、少しうれしそうなことに気づきました。答えが合っていたときにこちらを見る目。分からなくて不安そうにペンを止める仕草。そばにいて、気にかけてあげるだけで「学習」に対するやる気が少し出てきたようでした。

「今日はここまでできたよ」と得意げに見せてくれるノートを見ると、それだけで子どもはうれしそうでした。今まで私は、できたかどうかの「結果」ばかりを見ていたのかもしれません。けれど本当は、その「途中の迷いや小さな達成感を共有する」ことこそ大切だったのだと感じました。

余裕があると、声のトーンも変わる

時間に追われているときの私は、「早く終わらせて」という気持ちがどこかにありました。けれど、少し余白ができると不思議と声のトーンがやわらかくなります。「どこが分からないの?」と自然に聞ける。子どもも、前より素直に「ここ」と指さすようになりました。

もちろん、いつも穏やかでいられるわけではありません。何度説明してもすんなり理解してくれない時は、怒ってしまうときもありました。それでも、隣に座る時間があるだけで、子供も自然と学習に向かうようになり、だんだん生活の中で学習のリズムが付いてきたようでした。

そんな中で、ひとつの疑問も芽生えました。「私は今、ちゃんと“見る”ことができているのだろうか」と。隣にいて支えることは出来るけど、仕事で疲れている中、見てあげられる時間も限られているし、他の教科にもきっと心配な部分があるはず。子どもの勉強をどう見ればいいのか、その答えはまだ分からないままでした。

「なんで分からないの?」と揺れる親心

隣に座る時間が増え、近くで見ているからこそ、「心が揺れる瞬間」も増えたように思います。簡単そうに見える問題で手が止まっている姿を見ると、「あれ?さっきやったのに…」とつい口に出そうになる。ぐっと飲み込んだ日もあれば、言ってしまった日もあります。子供にもプライドがあるので、ちょっと言うとヘソを曲げてしまう日もありました。

教えるつもりが、責めるようになってしまう瞬間

「どうして分からないの?」という言葉は、思っている以上に”鋭い”ものですね。声に出さなくても、心の中でつぶやいただけで、表情や空気ににじんで伝わってしまう気がします。子どもは小さな変化をよく感じ取っています。私の眉間のしわや、少し早くなる口調。それだけで、ペンを持つ手が止まってしまうこともありました。

本当は責めたいわけではないのです。ただ、分からない理由が分からなくて戸惑っているだけ。けれど、その戸惑いが焦りに変わり、「ちゃんと聞いてる?」「さっき説明したよね」と重ねてしまう。教えるつもりが、いつの間にか責める形になっていることに気づき、あとから胸が重くなりました。

自分の過去がよみがえる

ふと思い出すのは、自分が子どもだった頃のことです。私は算数が得意ではありませんでした。黒板の前で指名されると、頭が真っ白になった記憶があります。「分かりません」と言えず、シーンとする教室でただ時間だけが過ぎていくあの感じ。もしかしたら、子どもも似たようなことがあるかもしれない、と考えると胸が少し痛みます。

それでも、親になると立場は逆になります。「分かるでしょ?」と言う側に立っている。あのときの自分の不安や悔しさを覚えているのに、同じような空気を作ってしまうことがある。そんな自分に気づくたびに、どう向き合えばいいのだろうと迷います。

“見る”ということの難しさ

勉強を“見る”とは、ただ解き方を説明することではないのかもしれません。分からなさの背景にある気持ちや、つまずきの小さなサインを受け止めること。それができたらいいと思うのに、現実は思うほど簡単ではありません。家事も仕事もあり、心に余裕がない日だってあります。

私は今、子どもにとって安心できる存在でいられているだろうか。分からないことよりも、「分からない」と言えない雰囲気のほうが怖いと思う。そんなことを考えながら、今日も隣に座りました。揺れる気持ちを抱えたまま、それでも何もしないよりは向き合う時間を作ることが大事だと思っていました。

どこまで手を差し伸べる?自立とサポートの境界線

子どもの隣に座る時間が増えると、次にぶつかるのは「どこまで関わるべきなのか」という問題でした。分からないところをすぐに説明してしまえば、その場はすっきり終わります。でも、それが本当にその子の力になっているのかと考えると、自信が持てません。手を出しすぎていないだろうか、逆に突き放しすぎていないだろうか。その境界線が、思っていた以上にあいまいでした。

手伝いすぎる不安、任せすぎる不安

答えにたどり着く前にヒントを出す。式の立て方を一緒に考える。気づけば、私のほうが先にノートに手を伸ばしていることがあります。「自分でやってみようか」と言いながら、内心では早く終わらせたい気持ちもある。そんな自分に気づくと、これでは“自立”から遠ざけてしまうのではないかと不安になります。

一方で、「今日は自分でやってみてね」と任せてみると、なかなか進まず時間だけが過ぎていくこともあります。好きな科目は進むけど、苦手な科目は一向に進まないなんてこともありました。分からないまま放っておくのも違う気がして、結局また隣に座る。どちらを選んでも、どこかに迷いが残るのです。

塾という選択肢がよぎる夜

周りの家庭の話を聞くと、塾に通っている子も少なくありません。「うちもそろそろ?」と考えたこともあります。でも、まだ早いのではないかという思いもありましたし、他の兄弟もいるので送迎は難しいと思いました。仕事を終えてからの往復を想像すると、体力的にも時間的にも簡単ではありません。

もちろん、費用のことも頭をよぎります。教育にお金をかけること自体は否定しませんが、無理をして続けられなくなるのは避けたい。わが家にとって何がちょうどいいのか。その答えは、よその家庭のやり方をそのまま当てはめることではなく、自分たちで見つけていくもののように思います。

“見守る”という言葉の曖昧さ

よく「見守ることが大切」と言われますが、その“見守る”の中身はとても幅広いと感じませんか。何も言わずに任せることなのか。つまずいたときだけ手を差し伸べることなのか。それとも、できたときに一緒に喜ぶことなのか。

ワンオペで家事や仕事を回しながら、子どもの学習にも向き合う日々。理想通りにいかないのは当然です。それでも、「私がやらなければ」と思い込んでしまうときがありました。けれど、本当に親が先生のように教え続けることは、十分には出来ないのではないかと思いました。

自立とサポートの境界線は、はっきりと線が引けるものではないのかもしれません。だからこそ、家庭ごとの形を探していくしかない。その子の個性に合わせた、安心して学び続ける形とは何か考えていました。

親が先生にならなくてもいい学びの形を探して

「ちゃんと教えられない自分は、だめな親なのではないか。」そんな思いが、ふと胸をよぎることがあります。親だって苦手な科目はありますし、子供の学年が上がるほど内容も難しくなっていくでしょう。

解き方をうまく説明できなかった日、感情的になる日もありました。子どものノートを前に、何度もそう思ってきました。でも本当に必要なのは、私が完璧な“先生”になることではなかったのかもしれません。

役割を背負いすぎていたことに気づく

気がつけば、「理解させる人」「正しい答えへ導く人」という役割を、自分ひとりで抱え込んでいました。けれど、家庭は教室ではありません。夕食の匂いが漂い、洗濯物が揺れ、テレビや兄弟の声など生活の音が混ざる場所です。その中で、集中して教えようと思ってもどこか無理が出てしまうのは当然だったのかもしれません。

子どもにとって必要なのは、すべてを説明してくれる親ではなく、自分に合う勉強法で自分のペースで学べること。学校とは違うリラックスして集中できる家庭の環境なのではないか。そう思うようになりました。理解のスピードもつまずく場所も人それぞれで、私ができるのは、答えを出すことよりもその環境作りなのかもしれません。

伴走という距離感

最近、「伴走」という言葉が心に残っています。前から引っ張るのでもなく、後ろから押すのでもなく、横で一緒に走るイメージです。ときどき声をかけ、ときどき水を渡し、でも足を動かすのは本人。そんな関わり方があってもいいのではないかと思うようになりました。

そのためには、親がすべてを担う形から少し離れる必要があるのかもしれません。子ども自身が取り組める仕組みや、家庭の中で無理なく続けられる方法があれば、私は「先生」ではなく「応援する人」でいられるでしょう。そうなれば、親子の会話ももう少し穏やかになる気がします。

もちろん正解はそれぞれの家庭で異なるでしょう。それでも「私が教えなくては」という思い込みを手放したとき、少しだけ肩の力が抜けました。そんなある日、送迎もいらず、家でスキマ時間に自分のペースで取り組める学び方があると知りました。正直、最初は半信半疑でしたが――。わが家にとっての“ちょうどいい”を見つけるきっかけになった出来事を、次回のブログに書いてみようと思います。

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